先日NHKで放送された番組で、お笑いコンビ「麒麟」の川島さんが、1週間、京都の庭師に弟子入りしていた。
手始めに、旅館の庭の一角の掃除をするよう指示された川島さんは、木々の根元に積もった落ち葉などを全て取り除いた。
すると親方は、「全然ダメや」と否定した。
川島さんが取り除いた落ち葉は、わざと置いてあったもので、そこに馴染むように数年かかっていると言う。
それって、どうなん?
木々の根元に落ち葉があるのが良いっていうのは親方の美意識であって、川島さんの美意識では何もないほうが良かったのだから、それを「自分なりの判断で」と指示しときながら全否定するのは違うんじゃないかな。
次に、親方は、草の生い茂る小川の一部を変えるよう川島さんに指示した。
今度は「大胆に」という注文付き。
何を持って大胆とするかは、その人次第だ。何も変えないことも、ある意味大胆である。
しかし親方は、草を抜いただけの川島さんを再び否定し、川幅を広げ、滝に石を置いて水の姿を変えた。
引っ込み思案で、型にはまることで安心する川島さんに、自分の殻を破ってほしかったのだろうとは思う。
ただ、庭は、庭に限らず芸術の良し悪しは、見る人が決める。
はっきり言って、私はあの親方の手懸けた庭は、全くピンとこなかった。
テレビで観る限りは。実際に行ってみたら、感じ方は違うのかもしれない。
最後に、金戒光明寺に川島さんが法然上人にまつわる庭を作ることになった。
東屋の二つの出口から伸びた道が出合い、真っ直ぐな一本道となって、開けた景色に出るというもの。
道は人生であり、また人との出逢いでもある。
道の方向が変わるきっかけなどを石の形や色で表現していた。
稚拙で未熟で単純な表現ではあるけど、かえってそれが、庭のテーマと一致しているように思えた。
川島さんの作った庭は、ご住職(というのか?)が経をあげ、金戒光明寺の庭のひとつとしてずっと残るらしい。
10年、20年、30年と、時間を経て、あの庭がどう変化していくのか。
庭を訪れるたびに川島さんは何を思うのか。
庭を見た人々はどう感じるのか。
まだ庭は完成していない。
庭を完成させるのは庭師でも時間でもない。
見る人の心である。
私はそう思っている。